2026-02 | NORIFIX diary

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2026-02-16

昨日、海がかるた会に行っている間、天が行きたがるので博物館へ行った。数年ぶりに入ったらリニューアルしていて、面白かった。昔の写真や道具を見て、それから『写真物語 昭和の暮らし 農村』と『同 山村』の本を読んで、僕もじいちゃんやばあちゃんの昔の話を聞いとかないかん。どうやって暮らしを立てていたか知りたいと思っていたところ、こんな話が聞けて嬉しかった。  昔話が始まったきっかけは、世間話をしていて、去年と一昨年はお米がなくて困った。米価が倍になってしまった。農家にはいいことだ。前は7500円くらいで農協で30kg買えとったのに、今は2万円。農家から直接買っても1万5千円とか話をしていて、僕は去年初めてお米を作った。手植えと手刈りで。と言ったら、「ああ私は小さい頃そんなことばっかりしよった」と言って、そこから芋づる式に色々話してくれた。 23:14

近年の話。鳴門出身の夫と鴨島に住んでいる。大きな台風が来たら飯尾川の水が溢れて家が床上浸水した。たんすの2段目くらいまで泥水に浸かった。水が引いても匂いが染み付いて取れないので放った。隣に1mくらい床を上げた建物を建てて、低い建物は壊した。 23:03

貴田庭園の現場。昼休憩中ふとシーズンに2,3回だけ来るおばあちゃん(74歳)の昔の話が聞けた。その場にはおばあちゃんと、おばあちゃんと仲の良い元大工のおじいちゃんと私がいた。剣山麓の一宇の山の中で子供時代を過ごした。幅2〜3mのくねくね曲がった田んぼを牛で耕した。朝田んぼへ連れて行く時は嫌がってノロノロ歩く。帰りはドタドタドタッといっきょいよく帰っていく。雌牛を一頭飼っていた。近所に雄牛を飼っている人があった。雄牛は力が強くて、飼っている人も背が高くてガッシリした人だった。しょっちゅう小屋を壊して逃げ出して、石垣を駆け上がってきた。何年かにいっぺん雌牛に子を産ませて、子を売ったり、親がくたびれてきたら親を売ったりした。牛を買いにくる人がいた。家では鶏を縁の下に金網を張って飼っていた。牛と鶏に餌をやるのが大変で嫌だった。牛には雑草や芋のつるやら藁やらを刻んで小屋の一方の端に置く。すると顔を突っ込んですごい勢いで食べだす。どんどん刻んでどんどん入れてやらないといけなかった。鶏には糠やらとうもろこしの粉に水を混ぜてやった。  生まれて一月で亡くなったお姉さんのあとに生まれたので体が弱かった。他の兄弟にはやらんのにわたしだけ生卵を毎朝飲まされて嫌だった。ご飯にかけて食べたらいいのにと言ったら、わたしは卵が好きでなくて食べんかったと言っていた。ゆで卵も白身は食べるが黄身はぼそぼそして喉に詰まるけんきらいだった。近所のおじいさんがしょっちゅうハメ(マムシ)を捕まえて、その場で皮を剥いて、皮は干しといて切り傷に貼ったりするんに置いといた。身はぶつ切りにして里芋となにかと一緒に葉っぱでくるんで藁か紐で縛ってそれをうちの縁側から「食べなよ!」と言って放り込んで来た。なにかと思って見ると、その葉っぱの包みがグネグネグネグネ動いていた。焼くときもグネグネ動いた。 一宇のあたりは今でも細い道でずーっと山の中へ入っていく。家は道から一時間歩いて上がったところにあった。小学校からの帰りは道草しながらゆっくり帰った。帰ると畑の手伝いをさせられるから。冬になると雪が膝上くらいまで積もった。もう少し上の集落では子どもの背丈より高く積もるところもあった。あるとき、雪だから早くいけとじいさんに言われて、雪の中を一番乗りで小学校へ行ったら誰もいなかった。誰も来ないから帰った。  お父さんは広島に原爆が落ちた3日後か4日後に広島へ行って、死体の片付けをした。小便をする場所もないほど死体がたくさんあった。戸板に乗せて運んだ。原爆症のせいか60代で早死にした。  22:59

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